パナソニックはいかにしてデジカメ業界をリードしてきたのか? LUMIX 15周年記念インタビュー第1弾
スリムコンパクト「LUMIX FX」の快進撃
−−LUMIX 15周年おめでとうございます。
他社のカメラメーカー様に比べると15年という時間は短いのですが、非常に濃密な15年であったと思います。
−−15年前、山根様のご担当は?
AVC商品開発センターで、デジタルカメラやムービーの要素開発をしていました。同じチームの3割はLUMIX 1号機のエンジン開発にも携わっており、私も要素開発と並行して、AFの信号処理の設計を担当しました。
−−発表当初、ライカとの協業が大きなニュースになりました。その理由は?
参入したときは周回遅れというより、3週遅れの状態でした。当時のパナソニックにはムービーのプロ機材を始めとして、カメラに対する築き上げた技術はありました。しかし、基本的には動画機に対する技術の蓄積であり、静止画・写真に対する造詣が不足していました。デジタル時代のレンズ性能基準を設定し発展させるために、ライカカメラ社に協業の提案をさせていただきました。
−−その関係は今も続いていますね。
はい。その頃から現在まで、ライカの経営トップは8名も変わりましたが、ブランド力は脈々と受け継がれ、その思想に変化はありません。さすがだなと感じます。
最初のLUMIXのひとつ、LUMIX F7(2001年)。発売から翌年、カラーバリエーションが充実した。もうひとつの初代LUMIXがLUMIX LC5(2001年)。1/1.76型CCDを搭載した、いまでいう高級コンパクトだった。−−ライカの光学技術に加え、そのときパナソニックとしての強みは他に何がありました?
私は手ブレ補正の開発についてもムービーの頃から担当しており、これをスチル系のデジタルカメラにも使えるのではないかと考えていました。当初は手ブレ補正=望遠撮影のときに効果を発揮するものという考えが主流でしたが、ひょっとしてコンバクトカメラの3倍ズームレンズでも効果あるのでは、と思いついたのです。
とはいえ、ムービーはパン・チルトに合わせた補正であり、メインの被写体が止まれば良い。一方スチルの場合は、画面全体を止める必要がある。FX1でコンパクトカメラ初の手ブレ補正を搭載しましたが、デジタルカメラのための手ブレ補正を研究して搭載したのが、ヴィーナスエンジン2を搭載したFX7(2004年発売)になります。AFについてもFX7でかなり速くなるなど、完成度が上がっています。FX7のヒットにより、LUMIXの国内シェアは17%という成果を出しました。
ターニングポイントだったLUMIX FX7(2004年)。LUMIXブランド躍進のきっかけとなった。−−この頃はスリムコンパクトの市場も大きく、FX系に勢いがありましたね。
レンズの進化も後押ししています。光学式手ブレ補正を内蔵しつつ、FX1で27.5mm程度あった鏡筒の長さが、FX7では20.25mmになりました。山形工場製の超偏肉非球面レンズの採用を始め、光学設計やイメージセンサーの鏡筒へのつけ方など、かなり研究を重ねた結果です。その差約8mmが、いまみてもバランスの良いFX7のスタイリングにつながり、その後FX40まで機種別でNo.1のシェアを獲得しました。
スリムコンパクトのスタイリングに寄与した要素はもうひとつあります。ファインダーを外したことです。手ブレ補正を搭載することで、背面モニターを見ながらの撮影でも、ブレのない写真を十分撮れる。コンパクトカメラは年配のカメラユーザーだけではなく、若い方々も使われるだろう。そうするとファインダーがなくても十分使っていただけるのでは?という考えから実現しました。そういった仮説の集合体がFX7だったのです。
−−FXといえば、28mm広角化も業界に先んじていました。その背景を教えてもらえますか。
ユーザー研究の成果として、集合写真時に両側の人が入らず、かつ被写体との距離の取れないシチュエーションが多くあることがわかりました。また、旅行で風景撮影時に全景がうまくフレーミングできないことも。それまで35mmは第2標準の画角ですからね。セミプロだけでなくアマチュアの方でも、28mmがあれば違った写真になるだろうとは考えていました。レンズの材料、成型技術など苦労しながら実現したのが、FX01の28mmレンズです。
広角端28mm相当のズームレンズを搭載したLUMIX FX01(2006年)。このサイズのデジタルカメラとしては、画期的な出来事だった。−−手ブレ補正にしても広角化にしても、その後各社が追随しています。コンパクトデジタルカメラの世界では、パナソニックは業界をリードする存在でした。
3週遅れなのもあり、「先進性がないと生き残れない」という意識が源泉になっていました。常に危機感を持ち、独創性の発揮を唱え続けてやってこれた15年だったのかと思います。