沿って, Uav-jp 31/01/2023

度を越した細部描写で“映画よりリアル”。歌もすごいオペラ「トスカ」が映画館で楽しめる

第1幕、嫉妬するトスカとカヴァラドッシ。

度を越した細部描写で“映画よりリアル”。歌もすごいオペラ「トスカ」が映画館で楽しめる

英国のロイヤル・オペラ・ハウスで上演された「トスカ」が、TOHOシネマズ 日本橋ほか、全国11カ所の映画館で上映される。期間は3月11日(金)から17日(木)まで。見どころを解説する。【写真を見る】トスカは見逃せない!

オペラは刺激的である。その刺激に病みつきになって、多種多様な刺激を求めて劇場に通いつめ、家にいてもストリーミングで鑑賞し、まるでオペラのために生きているようになってしまう人も、少なからずいる。なにごともそうであるように、オペラの刺激も入門者向けから上級者向けまでさまざまだが、分け隔てなく、だれにでも多方面から強い刺激を与えてくれるオペラの筆頭に挙げられるのが、プッチーニの「トスカ」だろう。愛、嫉妬、欲望、信念、疑念、絶望……と、あらゆる感情の坩堝で、そのうえ一つひとつの感情に浸っているヒマがないほど、ドラマはスピーディに展開する。また、登場人物の感情や場面の状況を鮮やかに描写して、舞台を観ていなくても、手に汗握りながら心を揺さぶられてしまう、美しく、繊細で、ダイナミックな音楽。「オペラのチカラ」が詰まっているオペラなのである。なんとなく「オペラは敷居が高い」と思っている人もいるようだが、それはチケットの値段のせいでもあるだろう。しかし、映画館で観られるなら敷居もへったくれもあるまい。昨年12月15日に英国ロイヤル・オペラ・ハウスで上演されたばかりの極上の「トスカ」が、3月11日(金)から17日(木)まで、「TOHOシネマズ 日本橋」をはじめ、全国で公開される。■4人がみな非業の死を遂げるスリリングな展開最初に「トスカ」のあらすじを簡単に記しておこう。舞台は1800年のローマ。歌手のトスカは画家である騎士カヴァラドッシと愛し合っている。画家は脱獄した政治犯アンジェロッティを助けるが、トスカは恋人が不審な様子なので浮気を疑う。警視総監スカルピアは、トスカの嫉妬心を煽ってアンジェロッティを捕らえ、美しい彼女もわがものにしようと企む。捕らえられたカヴァラドッシの命と交換に、スカルピアはトスカの肉体を求める。トスカは折れるが、たまたま見つけたナイフでスカルピアを刺殺。彼女はカヴァラドッシに警視総監が書いた通行許可証を見せ、処刑は見せかけだと説明するが、画家は本当に処刑されてしまう。スカルピア殺しが発覚して追手が迫り、トスカは屋上から身を投げる。じつにスリリングな展開だ。しかも、ここに挙げた4人がみな非業の最期を遂げ、こうした悲劇がすべて24時間以内に完結する。古典演劇のセオリーに「三一致の法則」がある。その筆頭項目が「事件は1日のうちに終わらなければならない」という「時の単一」で、これがうまく機能するとドラマが締まるという好例だ。ところで、「トスカ」は舞台へのお金のかけ方で印象が変わりやすい。1900年に初演されたこのオペラの舞台は、第1幕がサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会、第2幕がファルネーゼ宮殿、第3幕がサンタンジェロ城と、いずれもローマにいまも残る実在の名所。それをいかにリアルに描くかによって、緊迫度も、観る側のドラマへの没入度も、大きく違ってくる。■ディテールが作り込まれ、歴史の現場に立ち会っている気にジョナサン・ケントが演出したロイヤル・オペラ・ハウスの「トスカ」は、各幕の舞台の作り込みが半端ではない。たとえば第1幕の教会。手すりの質感から壁面や石材の再現の仕方まで徹底的にリアルだ。舞台となった教会とは構造もディテールも異なるが、舞台として見せやすい構造にすることで、かえって、本当に1800年のローマで物事が進行しているように見えてくる。歴史的な美しい衣裳も、その助けになっている。第2幕の宮殿も、歴史的な現場の忠実な再現ではないぶん、むしろリアルで、調度から机上に置かれた小物まで、カメラを寄せるほど実物感が際立つくらい、ていねいに仕上げられている。追い込まれたトスカが身を任せることに同意すると、スカルピアは彼女たちの通行許可証を書く。その場面は通常の「トスカ」では、スカルピアはペンをとって1、2秒、手を動かすだけのことが多いが、この「トスカ」では実際に許可証を書くのにかかるくらいの時間、しっかり手を動かしていた。そうしたディテールの積み重ねが説得力につながることは、言うまでもない。第2幕の最後、トスカはナイフを手にとってスカルピアを刺殺する。その後、通行許可証を探すが、机の上には見つからない。そこでスカルピアが着ているチョッキのボタンを外すと、そこに血に染まった許可証があった。チョッキの下は白い衣裳が生々しい鮮血で染まっていた。ここまでリアルなオペラの舞台にお目にかかった記憶は、あまりない。こうなると、ドラマがスリリングなのはもちろんだが、歴史の現場に立ち会っているような錯覚すら覚える。1800年のローマ。加えて、オペラが初演された1900年のローマ。いまなお渡航が厳しく制限されているなか、二重の歴史旅行が味わえるのは満足感が高い。■海外に聴きに行きたいレベルのすばらしいテノールもちろん音楽的にも充実していた。トスカ役を歌うソプラノはロシア生まれのエレナ・スティヒナ。この役はドラマティックな表現力が問われるので、強く押すように歌う歌手も多いが、そうすると微妙な女心が大味になって、感情移入を阻まれる。その点、スティヒナは弱音を上手に使って、移ろいゆくトスカの心を細やかに描き出していた。スカルピア役のアレクセイ・マルコフもロシア出身。この警視総監は貴族なのだし、こういう悪役こそエレガントに歌ってくれないと、芯からの嫌らしさはかもし出されない。そういう意味で嫌らしいスカルピアだった。一番驚かされたのはカヴァラドッシだった。予定された歌手が不調で降板し、急な代役はイギリス生まれでまだ20代のフレディ・デ・トンマーゾ──。そんな経緯だから期待していなかったが、イタリアらしい輝かしい音色の声を朗々と響かせるすばらしいテノールだった。質感の高い声が張りつめた旋律は美しく、高音には天を衝くような輝きがあり、弱音も上手に使える。「デ・トンマーゾ」という姓だからイタリア系だろう。わざわざ海外まで聴きに行きたい、と思うレベルの歌手だった。指揮したのは、今年からボローニャ歌劇場の音楽監督に就任したウクライナ出身の女性指揮者、オクサナ・リーニフ。この起伏に富んだドラマを変幻自在に操って、プッチーニらしい美しいメロディラインはしっかり歌わせ、抒情性も失われない。ロイヤル・オペラ・ハウスも昨シーズンは、ほとんど閉館されていたが、ようやく再開されると、いきなりこの刺激。コロナ禍で鈍った感覚を呼び覚まされること請け合いである。PROFILE香原斗志(かはら・とし)オペラ評論家。イタリア・オペラなど声楽作品を中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や公演プログラム、研究紀要、CDのライナーノーツなどに原稿を執筆。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、共著に『イタリア文化事典』(丸善出版)。新刊に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)。毎日新聞クラシック・ナビに「イタリア・オペラ名歌手カタログ」を連載中。歴史評論家でもあり、新刊に『カラー版東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。